みなさん、こんにちは。渡会です。
前回に引き続き事例紹介の回になります。
今回紹介するのは同じくローマにあるトランスヴィレ聖堂です。権力によってモノの意味を書き換えを行う、そんな悍ましいパートになっています。 2週に分けて紹介していきます。
今週は歴史とトランスヴィレ聖堂のスポリア概要を。次週、「モノ性の書き換え」に迫って参ります。
では、始めていきましょう。
02.サンタ・マリア・イン・トランスヴィレ聖堂 -権力の表現と意味の書き換え–
2-1トランスヴィレ聖堂の歴史
まずは、聖堂の歴史から。
トランスヴェレは4世紀中ごろに教皇ユリウス1世によって聖堂として建設されました。度々改修が行われやがて放置されたものを、12世紀半ば(1140年から1143年)にインノケンティウス2世によって今も残る聖堂として改築されています。
その後、13世紀に後陣円盤のモザイクが作成され、16世紀には格天井、17世紀には後陣下段のフレスコ画と、長い年月をかけて聖堂は整えられていきました。今回対象とするのはインノケンティウス2世の改築時代です。円柱から柱頭までほとんどすべてをスポリアしていていました。(︎この柱のスポイルは他の聖堂でも見られる)本題に入る前にまずは当時の状況について述べていきます。
12世紀当時、枢機卿の一方の派閥がグレゴリウス・パパレスキ(のちのインノケンティウス2世)を選出し、もう一方の派閥がピエールレオーネを選出し、彼はアナクレトゥス2世と名乗りました。枢機卿の大多数とローマ市民がアナクレトゥスを支持すると、インノケンティウスはローマを脱しその後イタリアとフランスに亡命することになります。1138年にアナクレトゥスが死去したことで事態は収束し、インノケンティウスは5年ほど教皇としてローマで過ごしました。ここで注目したいのはサンタ・マリア・イン・トランスヴィレ聖堂はインノケンティウスが教皇に選出される前10年間は敵対者の象徴的聖堂であるということです。 要は、後述するスポリアする側(インノケンティウス2世)とされる側(アナクレトゥス)の2つの派閥があって、バチバチに争ってたんだけど最終的にはスポリアすることになるインノケンティウス2世が皇帝についたということをおさえてもらえば大丈夫です!
2-2 カラカラ浴場からスポイルされた柱頭たち
ではスポリアへ行きましょう。 トランスヴィレ聖堂には22本の柱があります。22本のイオニア式の柱頭にはエジプト神話の神々であるイシスとセラピス(エジプト神話ではオシリス)の頭部とハルポクラテス(子供の頃のホルスの別称とされる。)の像が描かれています。 (その像の配置の仕方や、組み合わせにも々あるのですがそれはどこかで。。。) その22本のうち8本の柱とハルポクラテスが描かれた柱頭部分が、カラカラ浴場からスポイルされたというのが考古学上明らかになっています。
スポイルされた柱・柱頭部分たちは元々はカラカラ浴場内にある図書館にありました。そして、ハルポクラテスというのは沈黙・知識の神。「何をどんな理由で奪い、どう配置するか」そこが大事な「スポリア」において、ハルポクラテスの意味と図書館から持ってきたことが、そこを理解するためには重要になります。
次回はハルポクラテスという神について迫り、インノケンティウス2世はどのようにしてスポイルしたのかを考察していきます。 今回は前回同様、珍しい装飾がなされたイオニア式の柱頭をスポイルすることによって、インノケンティウス2世は「奪う」という皇帝独自の特権を行使し、皇帝特権を意図的に示し、自らの地位を見る人に印象づける効果があったという理解だけで終わりにします!
渡会裕己/ReLink
参考文献
Dale Kinney, Spolia from the Baths of Caracalla in Sta. Maria in Trastevere, 1998
Dale Kinney, The Image of a Building: Santa Maria in Trastevere,1988